下坂氏館

別名-  付近住所 滋賀県長浜市下坂中町 現在-
2007/12/22 案内板アリ


下坂氏  下坂氏館跡は、室町時代において長浜南西部に勢力を伸張した下坂氏の城館である。下坂氏は、南北朝の争乱期に足利氏側の武将として活躍しており、代々下坂庄の地頭職を任ぜられていた。
 城館の規模は、東西約89メートル、南北約87メートルの範囲において、高さ約1メートルから約2メートル、幅約5メートルから約7メートルの二重の土塁で囲み、幅約5メートルから約13メートル、深さ約1メートルから約3メートルの堀が現存している。主郭は東西約55メートル、南北約42メートルの内側土塁によって囲まれ、その北東側と南西側には二つの副郭が構築されており、南西側の副郭は一段高くなっており、武者だまりと考えられている。内側土塁の東側には土塁を切る形で高さ約2メートル、幅約7メートルの虎口が開口し、東側の東西約75メートル、南北約45メートルの規模を持つ腰郭へとのびる。以上のことから、下坂氏館跡は滋賀県下屈指の平地城館遺構と言えよう。

下坂家文書 六百九十七点(室町時代〜明治時代)
文書の一番古いものは、足利直義が下坂治部左衛門尉に与えた感状で、建武3年(1482)7月25日の日付を持つ。近江国の「伊祇代官」(草津市片岡町付近)の合戦におて、親類新兵衛尉重宗が討ち死にしたことや、京都法勝寺の合戦で弟三郎貞兼が傷を受けたことを記し、下坂氏が奮戦したことを謝し、恩賞については追って沙汰する旨を伝えている。
 京極家当主及び奉行人からの書状9通、浅井家当主からの書状9通が含まれている。特に、下坂家が浅井氏に仕えていたと同時期に、京極氏からの書状を得ていた事実は興味深い。最近の研究では、浅井氏二代の久政時代まで、高広を当主とする京極政権は、浅井氏政権と並立して存在していたとみられる。この地域で京極政権の文書をまとまって保有する所はなく、当地の戦国史の研究には欠くことのできない資料と言える。